新元号が「令和」に決定した真相―安倍晋三と皇室の間に衝突と軋轢があった?

新元号が「令和」に決定した真相―安倍晋三と皇室の間に衝突と軋轢があった?

30年間の歴史を終え、2019年に新たな年号「令和」を迎えた日本。

ところで、この「令和」という年号に込められた意味、そしてこの名称に決まるまでの経緯を皆さんはご存知だろうか。そこには、戦後最長の任期を務め盤石の政権体制を築いた安倍晋三・元首相がその名を歴史に刻まんとする目論む野望、そしてそれを阻止せんとする様々な思惑が裏で壮絶なリーク合戦を繰り広げていた。

3年目にして早くも戦後最も激動の時代になるのではと予想される「令和」。その激動を予感させる、新元号「令和」の名付けにまつわる衝撃のエピソードをご紹介しよう。

安倍晋三の本命は「令和」ではなかった! 歴史に名を残すことに失敗した新元号決定までの顛末とは?

令和と安倍晋三

「令和」はもともと安倍晋三の念頭にはなく、ドタバタの駆け込みで決まった元号だった。

 

「令和」が元号案として登場したのは3月20日頃とかなり遅く、安倍晋三が気に入る案がなく再提出を依頼した結果、出てきたのが「令和」だった

 

毎日の3月24日の記事を見ると、菅義偉が「考案者の皆さま方に3月14日、正式に委嘱した」とある。

 

何でこんな遅いタイミングで考案者に委嘱なのだろう

 

「『平成』に代わる新たな元号の発表まで1か月となった。政府はこれまで、複数の有識者に新元号の考案を依頼していたが、1日までに候補が出そろい、絞り込み作業が最終段階に入ったことが分かった」。
この時期、NHKの岩田明子も同じことを言い、元号は十数案に絞られたと話していた。

 

このとき、「令和」は十数案の中になく、中西進は考案者の中に入ってなかった。

 

3月1日から中旬の間に安倍晋三が決めていた本命案が潰れたことだ。本命案が潰れたから、やむを得ず中西進に泣きつき、慌ただしい流れで「令和」に漂着したのである。

報道ステーションに出演する安倍晋三が令和について語る

安倍晋三の本命は何だったのだろうか。

 

「安久」とか「安永」とか「栄安」が本命だった可能性が高い。

 

誰なら安倍晋三の本命案を潰すことができるかを考えれば、即座に解答が浮かぶからだ。安倍晋三がどうしてもこれにしたいと欲望する新元号を、それはだめだと阻止できるのは皇室(東宮)しかない。

 

取り沙汰されている『安久』などの案について、政府関係者は『俗用の一種に当たるので、なるべく避ける』という情報が出た

 

2月22日に皇居と東宮を訪れた際、安倍晋三は意中の「安」入り元号案を提示、世間では人気が高いなどと売り込み、問題がなければこれで決めさせていただきたいなどと図々しく迫ったのだろう。その後、皇室(東宮)側から不可の意向が届き、3月中旬になって安倍晋三が本命を断念、中西進の万葉集案なら皇室(東宮)も了承してくれるだろうと妥協し、中西進に泣きついた

 

中西進への本命委嘱そのものが、両陛下からの対案であり推挙だった可能性も考えられる。何となれば、中西進は「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動」の賛同者だからだ。

 

今回の元号選定は明らかに政局であり、歴史に残る一つの重要な政治戦だった。野党と左翼リベラルの現役文化人は最初から白旗を上げて降参し、独裁者の大勝利で終わるかに見えたが、天皇(皇室・東宮)が粘り、粘り腰の末に同齢の老知識人と謀って逆転勝利を遂げた。

令和の意味と由来

出典元:https://critic20.exblog.jp/30211907/

安倍晋三・元首相の、自らの名前に付けられた「安」の字を歴史の中に残さないという強い意志を示したのは、皇室だという事実。

何ともとんでもない説にしか見えないが、果たして真相は…? それもまた歴史の渦の中に消えてしまった「真実」なのかもしれない…

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